賠償上限で変わる「戻れる判断」
2026-05-10
日本経済新聞が報じた会社法改正の動き。取締役の賠償責任に上限を設けるというこの改正は、一見すると「経営者を守るためのルール変更」にすぎません。しかし私は、これを「戻れる経営」を実現するための重要な制度設計の一つだと捉えています。
経営判断の可逆性を最も妨げる要因の一つが、「判断を誤ったときの法的リスク」だからです。責任を問われる恐怖が、実験的な判断や素早い意思決定を萎縮させ、結果として「戻れない選択」を強いることは少なくありません。
この記事では、今回の会社法改正を「経営判断の可逆性を高める法制度」という観点から読み解き、中小企業の経営者がいまからできる対策を提案します。
賠償リスクが判断を硬直させる
多くの中小企業の経営者は、取締役としての責任を「無限責任」と捉えています。とりわけ新規事業への進出やM&A、不採算事業からの撤退といった大きな判断には、失敗したときに個人として賠償を負うリスクがつきまといます。
このリスクが、経営判断を歪めます。「失敗したら自分の財産を失うかもしれない」という恐怖は、次のような「戻れない選択」を生みます。
- 不確実性の高い新規事業を「やらない」という選択(チャンスを逃す)
- 失敗が明らかになっても「撤退」を先延ばしにする選択(損失が膨らむ)
- リスクの高い意思決定を「取締役会で決議させない」という選択(責任の分散)
こうした選択は、結果として企業の成長を妨げ、経営判断の可逆性を大きく損ないます。「やり直せる」はずの判断が、「やらない」「先延ばし」という形で固まってしまうのです。
「賠償上限」は可逆性の枠組みになる
今回の会社法改正は、この悪循環を断ち切る可能性を秘めています。取締役の賠償責任に上限があれば、経営者は「最悪の場合でも、失うものは限られている」という安心感を持って判断できるようになります。
これはまさに「戻れる経営」の核心です。判断を「決定」ではなく「実験」として扱うには、失敗したときのダメージを前もってコントロールしておく必要があります。賠償上限は、そのダメージコントロールの枠組みを法制度として用意するものと言えるでしょう。
具体的には、次のような「戻れる判断」が後押しされると考えられます。
- 「だめなら戻せばいい」という前提で、新規事業に小さく投資する
- 「撤退条件」を先に決め、条件を満たさなければ潔く撤退する
- 「役員報酬を下げる代わりに、賠償責任を限定する」という契約を結ぶ
どれも、「失敗は許されない」というこれまでの考え方のもとでは実行しにくいものでした。賠償上限は、経営者に「実験する自由」を与えるのです。
法改正を「他人事」にしないための準備
この法改正は、上場企業だけでなく、中小企業にも大きな影響を与える可能性があります。中小企業では取締役がオーナー経営者自身であることが多く、賠償リスクは経営者の個人資産に直結するからです。
だからこそ、この改正を「自分ごと」として捉え、積極的に活用すべきです。具体的には、次のような準備を進めることをお勧めします。
定款に「責任限定契約」を取り入れる
責任限定契約そのものは、すでに会社法427条で認められています。ただし現行法で対象になるのは、社外取締役などの業務執行をしない取締役や監査役に限られます。今回の改正では、その対象を代表取締役などの業務執行取締役にも広げることが検討されています。実現すれば、定款に定めておくことで、経営者自身の賠償責任も「報酬額の数年分」といった形で限定できるようになります。この仕組みを自社の定款に取り入れれば、経営者は「個人資産を失うリスク」から解放され、より積極的に経営判断ができるようになります。
「撤退条件」を先に決め、契約にしておく
賠償責任が限定されたからといって、無謀な判断をしてよいわけではありません。大切なのは、判断の「可逆性」を担保することです。新規事業に着手するときは、「これが達成できなければ撤退する」という条件を前もって決め、取締役会の決議や株主総会の承認事項として契約にしておくのが有効です。そうしておけば、失敗したときにも「責任を問われずに撤退できる」という安心感が生まれます。
「実験的な判断」を組織文化に組み込む
法制度が変わっても、経営者のマインドセットが変わらなければ意味がありません。「失敗は学び」と捉え、小さな失敗を許す組織文化を育てることが欠かせません。賠償上限は、その文化を支える「安全装置」として働きます。
「戻れる判断」を阻んでいるのは何か
今回の法改正は、経営判断の可逆性を高めるための「外側の環境整備」です。しかし最も大切なのは、「内側の覚悟」です。どれだけ法制度が整っても、経営者が「失敗したら終わり」という恐怖から逃れられなければ、判断は硬直したままです。
私が「戻れる経営」を提唱するのは、経営者が「失敗しても戻れる」という確信を持てるかどうかが、企業の成長を左右すると考えているからです。賠償上限は、その確信を支える手段の一つにすぎません。
本当に大切なのは、経営判断を「決定」ではなく「実験」として捉え、常に「戻るための出口」を確保しておくことです。今回の法改正をきっかけに、自社の経営判断が「戻れる設計」になっているかを、いま一度見直してみてください。
判断を戻れなくしているのは、法制度ではなく、経営者自身の「失敗への恐怖」なのかもしれません。